航宙日誌
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がんばれ宮崎

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配属されて秋葉原の応援をやっていましたが、結局8ビットパソコンは次に出したパソピア7という機種も思うほど売れませんでした。今は亡き横山やすしと息子の一八を起用したコマーシャルもからぶりに終わり、NECに加え富士通がFM7というベストセラーを出し、東芝のシェアはほとんど見えない世界にありました。その頃、東芝は16ビットパソコンを発売します。時代はビジネスパソコンということで各社が出し始めましたが、東芝は半導体部門があったせいか、いち早くインテルの16ビットCPUを採用し、世に先駆けて販売しています。しかもMS-DOSを搭載。このMS-DOSの日本語化は世界で最初に、東芝の青梅工場が手がけています。
しかし、肝心のソフトウェアが少なく、NECのPC9800はそれまでの8ビット用のソフトの互換性があることからやはりNECのシェアは大きく、われわれの前に巨人のように立ちはだかっていました。
そんな中、新人の私は電話対応のアルバイト女性から電話を代わりました。見積り依頼でした。早速ヒヤリングに行くと、ホッチキスなどの最大手の会社です。CADシステムをパソコンとセットで販売するという半ばOEMのような商談でした。競合はNEC。ただ、NECは強気なので金額が高いとのこと。
100台、500台、1000台の見積を出したと記憶しています。当時、子会社の販売会社に卸す金額が定価の65%から60%でしたが、実際には対策費を打ったりして50%から60%でした。台数も月間100台どころか半年で200台とか300台だったと思います。したがって、先輩からもアドバイスをもらい65%程度の見積を作りました。そのときに上司は子会社に応援の意味で出向し、技術部から営業部長付ということでが転属してきていて、彼が営業課長の代理をしていました。その彼は、「水居君、君は甘い。最初からこんな弱気でどうする。90%とかせいぜい80%でよいのでは」との言。競合もあるし、彼らの予算を想定するとこれくらいでないと、と食い下がりますが、許されず、下限の80%の見積を持っていきます。相手の課長さんから、冗談じゃない、君たちはやる気があるのか、と言われました。小売店でもこれくらいで買えるよ、と言われ、夕方暗くなったころ、帰る道々悔し涙が流れました。
見積を出す前に、相手の課長さんが、実はいとこが東芝にいるんだよ、と言っていました。その方は東芝の工場統括長という3つのコンピュータ機器類の工場を束ねる、たいへん偉い人でした。その話をさきほどの課長代理にしたところ、なに、工場統括長はよく知っている、今から話をしに行こうということで会いに行きます。経緯をその課長代理は滔滔と話し、がんばれという激励に浮かれていました。その後、ショールームに相手方が見学に来るということになったときも、彼はその工場統括長をこっそり呼び、相手の課長と引き合わせます。課長代理流の営業テクニックだったのでしょう。
その課長代理に、見積を持っていき、だめだったとの報告をしました。そこで課長代理は一言、「営業はあきらめちゃいかん、これからだよ、じゃあ、60%で持っていこうか」わたしはめまいがしました。「80%で持っていったあとですぐさま60%というのはあまりではないですか?私にはできません。」「それが営業だよ、明日にでも持っていってくれ。」
わたしはこれが大手企業の営業なのか、と思いました。秋葉原で店頭応援をしていたときに、値引きを要求されますが、相手を見て最初の金額を提示しますが、基本的には落ち着く金額を最初に設定するわけです。80%で提示するときはせいぜい75%で落ち着かせるのが常識でした。60%であれば70%とか。(あまり60%というのは例がありませんが)
命ぜられるまま、わたしは相手の会社に行き、課長に見積を出しました。彼は見積書を一瞥すると、わたしの異常な雰囲気にも気づいていたのでしょう、君も苦労するね、最初からこの金額で出してくれればね、と言ってくれました。東芝のハードの性能は高く評価してくれていました。静かに課長は話を始めました。
「実はね、価格が相応だったらけっこう(東芝を)押す意見は多かったよ」「見積が高かったということ、駆け引きはなしでという前提だったしね」「ショールームでいとこを引っ張り出したのはまずかったね。あれで親戚がいるということがこちらの社内でわかったので、相当東芝を押す理由がないと縁故で入れたといわれる可能性がでたのでね」
課長の言葉は重く私の気持ちにしみこみました。
そして、「君も新人とはいえ、よくがんばった、でも上司を説得する、説得できるのも君の仕事、今後はそれを考えて仕事をしなさい、君は絶対伸びるよ。」その言葉を聴いたとき、わたしは客先の応接室(課長と二人)で、泣きました。涙がぼとぼと出ました。
悔しさもありました。でも社内事情に翻弄された自分が嫌だったのかもしれません。課長代理の知ったかぶり営業術に翻弄されたのです。もっとしっかり説得すべきだった。それと、この課長の自分にがんばれと言っていただく気持ちにうれしかったのです。

翌日、課長代理に報告すると、信じられない言葉が帰ってきました。「そうか!残念だった。工場統括長には君から報告しておいて」
えっ、最初は自分から張り切って行ったのに、悪い結果だとこうかい!と驚きました。
工場統括長には一人で行きました。当時は雲の上の人です。ところが、工場統括長は1年生の僕に椅子をすすめ、こう言ってくれました。「Sから聞いているよ」Sとは相手の課長です。「君はがんばったらしいじゃないか。惜しかった、また他でもがんばりなさい。」わたしは再び泣けそうになりましたが、社内でもありましたのでこらえました。この工場統括長は東芝の本部長になり、役員にもなりました。その後関連会社の社長まで務めた方です。その後も社内で偶然お会いすると声をかけてくれました。威張らない、すばらしい方でした。
課長代理とはその後ももめましたが、次年度にはいなくなりました。でも直属ではないにしろ、縁は続き、苦労はさせられました。

東芝時代のとても自分にとって栄養になった思い出です。