航宙日誌
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がんばれ宮崎

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幼稚園を卒園した頃、両親は市営住宅の抽選にあたり、そこに家族全員そろうことになりました。場所は延岡市大貫町。市営住宅が多く、花の名前がついていました。私の家族はスミレ団地に住みました。周りは住宅造成などが盛んで、また市営球場や運動場なども整備されているところでした。
南方小学校に入学、この学校はクラスが松、竹という呼称を使っていました。松と竹のあとは覚えていませんが4,5クラスあったと記憶しています。わたしは松組です。
プールはなく、夏は近くの五ヶ瀬川に泳ぎに行きます。今、Googleマップを見てみると、通学は直線で1.5kmくらい。子供の足では40分くらいかかっていたのではないでしょうか。
2年の終わりに父親が宮崎市農協に転職することになり、引っ越すことになりました。
昭和43年の3月、宮崎市の大宮小学校に転入します。
自宅は祖父母と同居ですが、半年後に祖父母はすぐ前の場所に新居を建築して移りました。宮崎神宮や宮崎大学の農学部が近くにあり、畑も多い場所です。祖父は貸家を建てるようになり、実家の前に大きな貸家を2軒建て、1軒には出光石油の社長?(宮崎の販売会社の社長だと思われる)が住んでいて、たくさんのタンクローリーがありました。
小学校のまわりには田んぼがひろがり、季節ごとの風景や生物と親しんでいました。蛙の卵、レンゲ、稲穂、とんぼ、カブトムシ。
友達もたくさんできました。
そのまま中学へ進学です。