宮崎の社長さん100人
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This is the archive for January 2011

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山本さんは、元はといえばデザイナーである。そのスタイリッシュな立ち姿にさもありなんとの感が深いが、社業の方はデザイン企画、野外広告はもとより、建築、塗装、防水、木工、イベントリース施工など何でも屋さんである。
私の見るところ、当社のレパートリーが便利屋さんのように拡散していくのは、会社の定款に基づくというより、山本さんの人柄による。山本さんは、何であれ頼まれたら断れない。
延岡市に「少年少女発明クラブ」がある。都城市の同種のクラブは県内で最も古いが、延岡のクラブは、宮崎市に次いで県内三番目の新参である。設立は、延岡の異業種交流会の稲田義美会長(花菱塗装技研工業社長)である。しかし、長年に亘り子どもたちの世話をし、クラブの運営にあったっているのは山本さんである。近年、(社)発明協会宮崎県支部主催の「少年少女発明工夫展」での延岡の成績は目覚しい。中には、全国表彰を受けた作品もある。山本さんのNPO的無私の精神の賜物であろう。
一度、山本さんの会社の木材芯抜工法の発明について相談を受けたことがある。その後の経過は承知していないが、私はむしろ山本さんには、宮崎県に数少ないインダストリアルデザイナーとしての活躍を期待している。年中薫風に吹かれている山本さんの蓬髪は、それにふさわしいさわやかな感性を示している。

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当社は、1904年創立の老舗である。焼酎醸造蔵は、延岡市の祝子川沿いの狩鹿瀬町にある。今年、新しい蔵を同じ川の対岸沿いに作り、蔵開きをした。たまたま蔵開きの数日前、新蔵を訪ねた。祝子川の清冽な川面に光が散乱し、無数の白い蝶が翅を返しているようだった。水江さんによると、クロマダラソテツシジミという美しい蝶は、この川岸の老木にしか棲息しないというのだ。
かつて詩人の本多利通は、この祝子川を「おお/桑平/大野/狩鹿瀬/それらの地霊に黙礼して/ながれゆく」(詩「谷間」から)とうたっている。私も本多や他の詩人たちと、ここから先の大野町で茶園を営んでいた黒岩園の詩人渡辺修三をよく訪ねた。
渡辺も私も焼酎はたしなまないが、黒岩園では必ず当社の栗焼酎「三代の松」がでた。焼酎を愛した詩人の金丸桝一は、渡辺を訪ねた日のことを偲んでうたった。
  その日は薄曇りであった
  冠毛は光って流れるようにも見えた
  李白や陶淵明やが話題になった
  詩人は「三代の松」一本を卓上においた
                (詩「冠毛」から)
新蔵のロビーの木の香も高いテーブルで茶を喫しながら、私は半ば往時に心を傾け、半ば入江さんの低い声に耳を傾けた。明治以来の伝統と最新の設備、まだ醸造は始まっていなかったが、その隅々にまで杜氏である入江さんのこだわりがみてとれた。新蔵は、当社のこれまでの100年、入江さんの願うこれから先100年を連結する蝶番でもある。

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私は、水居さんが宮崎出身であることを知らずに出会った。もう10年近く前のことである。当時購読していた「日経パソコン」に水居さんの東京の会社オールウエイズの広告が出ていた。私も会社をつくって間のない頃で、マルチメディア関連の仕事をしようと思い、電話した。
事務所は、特許庁に近い赤坂のビルにあり、所用で上京の折うかがった。そのとき、初めて水居さんが宮崎出身であることを知った。ふたりで、観光用CDの製作に青島や綾を訪れたことがある。今と違ってインターネットもない時代である。CDの説明がやっとで、到底ビジネスにはならなかった。
水居さんは、最近お亡くなりになったご母堂が、当時ひとりで宮崎に住んでおり、何かと心配なので、宮崎に会社を作りたいという願望をもっていた。インターネット関連の会社エムネットである。ほんのわずかだが、私もエムネットの創立を手伝だった。まだ九州には、大分のコアラくらいしかない時代である。神宮の杜の近くに、水居さんが開いたインターネットカフェが、宮崎のIT時代の幕開けだった。
水居さんの武器は、卓抜した企画力と多様な人脈である。いつの間にか、エムネットは大きく成長した。その後、(株)グッドワンを含む4社と合併し、新会社アイコムティを設立、水居さんは新しい会社の専務となったが、最近再び新会社の社長に返り咲いた。今、電子出版を始めようとしている。私も、この分野なら多少手伝えるかもしれない。思えば、水居さんとは不思議といえば不思議な縁である。

 渕さんは、温厚な人である。どういう経緯だったか、もうはっきりしないが、夕刊デーリー社長の高見弘人さんと私に、渕さんを加えて、「日向・延岡ユネスコ協会」を設立、会長をお願いした。今でいえばNPOのようなものである。
 渕さんは、若い頃、第1回の農業研修生として一年間渡米、アメリカの農業を学んでいる。1950年代の初めである。およそ10年後、私の家人の兄が同様に農業研修生として渡米している縁もあって、渕さんには急速に親しみを覚えるようになった。
 一度、フィリッピンの官吏が宮崎の養鶏を視察に来るから、通訳をしてくれと電話がかかってきた。私は、英語は何とか読めるが、喋るのも聞くのも自信がなく断ったが、午後には高等学校の英語の先生が来るので、つなぎだけでもいわれて出向いた。案の定、フィリッピン英語には難渋した。
 日向・延岡ユネスコ協会での渕さんの仕事は、当時まだ珍しかった中国の農業研修生の受け入れ事業である。渕さんは、戦中、中国大陸にいたことがあり、中国語はかなり自由に話していた。研修生の受け入れ事業は、戦中お世話になった中国に対する恩返しであった。

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10年以上も前の話である。旧宮崎県技術情報センターが南宮崎駅の裏にある頃、宮崎大学の教授であった佐々木亘先生を中心に「光応用グループ」という産学官のプロジェクトがあった。佐々木先生の研究テーマである「真空紫外光発生装置」の産業化を目指したグループである。10社余りが参画していたが、もっとも熱心であったのが、当時延岡の日之出酸素(株)の社長であった日野さんであった。佐々木先生と一緒に海外の学会に出かけたこともあった。
何かの食事会の際、日野さんとは同郷であることも分かり、その温和の人柄に惹かれた。日野さんは、その後、日之出酸素の社長を創業者の子息に譲り、退職金を投じて佐々木先生と一緒に(株)ナノテクフォトンを立ち上げた。宮崎県で最初の大学発ベンチャーであった。
立ち上げに際しては、知財対策で私も何度か合う機会があったが、最先端技術をベースにしたベンチャー企業である。多くのベンチャーの例に洩れず、同社の経営が必ずしも順調でなかったことは想像に難くない。結局、佐々木先生はナノテクフォトンから別れNTPを創立、日野さんは延岡に帰った。その際の懐の深い態度をもれ聞き、日野さんの温顔が私の脳裏を掠めた。
先日、宮崎県工業会のテクノフェアで、久しぶりに再会した。別れ際に、日野さんはさびしく笑った。
「なんだか最近はファイトがなくなってね。」

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檜垣さんに最初に会ったのは、多分、私が宮崎県産業支援財団でコーディネータをしていた頃である。食品工場の抗菌処理を行うロボットライクの装置を開発、夜間自動的にオゾン処理するシステムであったと記憶している。直接的には、他のコーディネータが管轄していたので、私は一度だけ補助金のフォロー調査で会社を訪ねたことがある。甲冑のようなロボットが会議室の隅から、訪問者を睨んでいた。
驚いたのは、ある国会議員の演説会の会場で、ばったり再会しことである。後で聞くと、おなじ政党からでたある町の町長さんの夫人が檜垣さんの縁戚に当たるということだった。
檜垣さんは、技術屋ではない。しかし、技術屋とか事務屋とかいう区別は無用である。若い頃の数年の専門性にこだわるのもひとつの生き方であるが、大部分の人は社会にでると専門とは別のことをしている。経営者としては、むしろ後者の適用性の方が大切であろう。
最近、またひょんなことから、当社の新事業の立ち上げに関係した。ここからひとつ飛躍するには、新しい技術への挑戦は不可欠であるが、同時にリスクを犯すことにもなる。まあしかし、檜垣さんの明るい前向きの姿勢、科学的根拠への真摯な探究心だけで、私は当社の将来を楽観している。

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野邨さんは、もとは田野の漬物屋さんである。エビネの球根抽出液で作った育毛剤「MY LEBEN」が大ヒットした。私が会った頃は、自宅の玄関先で、1升瓶にエビネの球根を入れ、焼酎で抽出していた。そこで終わらないところが野邨さんの真骨頂である。
野邨さんは、食品開発センターや、京都薬科大学の門を叩き開発を進める。医薬部外品の許可を取ったのも、多分宮崎県では最初であろう。内外国に沢山の特許も取得している。中には、エビネの球根から得た生理活性の強い新規化学物質も数種類含まれている。大企業や大学の先生にしても、エビネのような鑑賞蘭の薬理作用など思いもよらなかったに違いない。大手製薬会社からの引き合いも多々あったが、自分で事業化に踏み切った。本当のアントレプレナーである。
「まず、植物の部位を噛んでみて、ピリピリしびれるようなら本物です。」と言うのが、野邨流の生理活性評価方法である。科学的な試験や検査はそれからだが、これが当たるから不思議である。
最近は、健康飲料の開発中である。技術的な課題も多いが、独自の粘り強い努力で解決する。販売や営業にいささか弱いのが企業経営者としては問題であるが、開発者にはありがちなことである。
何か問題が起こると、例によって、突然せかせかとした口調で電話をしてくる。電話を切ったときはもう玄関のベルが鳴っている。ここ数年来、野邨さんから電話があると、決まって私の方が入院中か手術前である。あまり役に立ったためしはないが、永いつきあいが今も続いている。

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新原さんがアメリカの特許を導入して、トンネルクールシステムを導入したのは、もう25年余になる。私が初めて新原さんの工場に伺ったときには、その試作機が大きな部屋の壁に取り付けられていた。
この冷房装置は、水を風で噴霧状に送り出すもので、湿度は高くなるが気温は下がる。その通風霧化機構がハニカム状のトンネルになっており、畜舎のような開放系でも有効である。鶏の熱死や豚舎の環境保全に役立つ。
もともとに新原産業は、家畜関連を含め、農業資材の商社のようなものであるが、単なる商社ではない。新原さん独自の創意工夫が随所に見られる数々の新商品がある。先日、久しぶりに訪ねると、低電圧温熱マット「ほかとんパネル」や豚舎の餌箱、木造畜舎など、数々の新製品があり、新原さんのとどまることを知らい改良、改革の情熱にうたれる。
私は覚えていなかったが、サニーシーリングの故窪田社長とともに、もう20年近く前に私が宮崎県の旧産業技術情報センターで行っていた特許セミナーに参加していたらしい。二人とも、このセミナーの第1回生であることが、今は私の自慢でもある。

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長友さんは、1級建築士であるが、機械設計が得意である。これまでも、出し入れ自在の収納付きベランダや、門扉を開発しきている。どれも、片持ち支持機構を利用したユニークな装置である。あれば便利であり、話題性も高いが、何しろ大型で安くはない。爆発的に売れるとまではいかない。
先だって、その長友さんからまた電話があった。今度は、縁側から車椅子に乗ったまま、庭先に段差を無視して移動できる介護装置である。もちろん、車両への昇降も可能である。4節リンクを使ったこれまたユニークな発想である。多くの発明家にもれず、長友さんも次々にアイデアが湧き、そうなるともう自分でもとまらない。寝食を忘れて没頭する。特許出願費用もバカにならない。
「ひとつひとつ商品として完成し、その利益を次の開発に向けては?」
「いや、分かっています。今度は売れます。先日テレビでも放映されました。」
マスコミは、珍しければ取り上げる。商品の売り上げに寄与はするが、成功を保証するわけではないが、私は長友さんが息せき切って自分のアイディアを説明する姿を見て、ハタと膝を打った。生きるとは感動である。それで、少しでも金になれば、人生のオマケではないか。

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霧島のえびの高原で、若い夫妻がおいしいヨーグルトを作っっていた。一度口にすると忘れられない食感である。
ふたりは酪農系の大学の同級生で、卒業後ブラジルに渡り、夢やぶれて告田さんの故郷であるえびの市に帰ってきた。告田さんは、ハイテンションの社長であるが、夫人はいかにも技術者らしく寡黙である。乳酸菌の専門家である。
おいしさの秘密は、原料生乳、低温殺菌、乳酸菌の取り合わせにあるらしい。開発はむろん夫人の技術によるが、毎朝搾りたての生乳を熊本の牧場までとりに行く告田さんの活力には、驚いた。今もその活力は変らない。
いちど告田さんが、夜中に拙宅に飛び込んできたことがある。初期投資以降の累損で資金繰りにいきづまったのだ。わたしに何ができるだろう。ある銀行の支援で急場をしのいだが、こんどは中堅の企業に買収されようとしていたのだ。「M&Aに敗北感をもたなくていいんですよ。商品がよかったから買い手がついたんです。」
慰めにもなっていない私の言葉に、夫妻は努めて明るく振舞ってくれた。今度、夫人を社長に告田乳酸発酵研究所を立ち上げると言っている。
もう数年も前の話しだ。三月の中旬、私は高原の小さな工場を訪ねたことがある。途中道に迷い、えびの市のJR京町温泉駅まで迎えにきてもらった。待っている間にふと駅舎の横を見ると、野口雨情の詩碑がある。
  真幸京町わかれが辛い霧が姿をまた隠す   雨情

立山さんとは、1980年から2年間、西日本新聞の文化コラムの執筆でたまたま一緒だった。「土呂久から」の川原一之さん、「海岸線から」の三島久美子さん、「仕事部屋から」の立山周平さん、「椿ヶ丘から」の私の4人が執筆者だった。最後の執筆が終わった際、新聞社の計らいで会食をした。初対面は、そのときであった。
帰り際、耳元で「私は、文化人ではなく労働者ですよ」と、立山さんは言った。いかにも陶芸家らしいと感じ入った。
とはいえ、立山さんはやはり文化人である。いつだったか、「宮崎にもタキシードを着ないと入場できない音楽会があってもよい」と言い、宮崎音楽祭で実現したらしい。らしいというのは、タキシードを持たない私は、まだその音楽会に一度も行ったことがないからである。
国富にある立山さんの工房には何度か訪ねたことがある。四囲を山に囲まれた台地に工房と庭があり、自然も含めて立山ワールドを形成している。そこで作られる立山さんの作品は、陶器も絵も、琳派風の華麗で繊細な色彩が特徴である。立山さんの国際的な活躍も、この伝統的な色調によるところが大きいだろう。
時々私は、ホテル・シェラトンの地階にある立山さんのアンテナショップに立ち寄る。立山夫人の「ひまわり」が、立山さんの繊細さに対して、むしろ大らかな存在感を示しており、その対照がまた面白い。

高見さんは、社長というより詩人である。最初に会ったのは、まだ20歳前後の頃である。当時高見さんは、延岡の夕刊ポケットの新聞記者だった。蒼白の顔を傾けて、旭化成の延岡支社に取材で来ていた。
その高見さんから、突然長文の手紙を戴いた。その頃、私たちが出していた詩誌「白鯨」同人に加えてもらいたいとあった。「白鯨」の同人は4人で、不文律ではあるが同人を増やさないことになっており、私はつらい思いで断った。
高見さんとは、その後、「あすなろ」の社長渕澄夫さんと3人で「日向・延岡ユネスコ協会」を設立、戦後に延岡から刊行された高校生のユネスコ作文集の復刻などを一緒にした。一度、宮崎でユネスコの全国大会があったときのことである。高見さんは、敢然として立ち上がり、副会長の仏文学者桑原武夫氏に食い下がった。その純粋な情熱に感嘆した。
晩年、高見さんは奇病を患い、不自由を余儀なくされていた。そんな中、ご子息に助けられながら拙宅に来て、詩集を出したいという。以前断った罪悪感もあり、私は即座に解説を引き受けた。「愛をさがす旅」と題された高見さんの詩集は、キリスト者としての高見さんの純真な魂の愛を希求する詩篇からなる。汚濁した現代には稀な詩集である。高見さんの訃報に接したのは、それから間もなくだった。

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10数年ぶりに末次さんの会社を訪ねた。以前は、旧佐土原町の海よりの田んぼの中に、新しい工場がぽつんとあった。いまでは、工場の周りに家が立ち並んでいる。末次さんは、私の突然の訪問に大層驚き、再会を喜んでくれた。お互い少し歳を重ねたが、末次さんの静かな語り口は当時のままだった。
宮崎県の旧工業試験場が南宮崎駅の近くにあった頃、末次さんとはなんどか発明や特許の話をしたことがある。どんな発明であったかはもう忘れてしまった。
末次さんの会社は、もともと電子基盤を作っていた。今でもそれが本業であることには変わりはない。ところが、最近地元紙に、発光ダイオードを使った電波時計が、当社新商品として紹介されていた。私が訪ねたのは、その記事がきっかけである。電波時計は、よく見かける表示装置のひとつのような気がするが、聞くと末次さんらしい面白い仕掛けがいくつもある。
私は、持ち前の好奇心が沸いてきたが、実は発明の技術内容などどうでもよいことかもしれない。私は、末次さんとの再会をとおして、忘れかけていた技術とヒトに対する信頼のようなものが蘇ってきた。再会を約して、会社を後にした。

白髭さんの訃報に接したのは、亡くなってずいぶん後のことだった。長い間の疎遠が悔やまれた。もう20年余りは前のことだ。延岡市役所の別館で特許の話をしたとき、白髭さんが脚立つきの16mmカメラを回し始めたのには驚いた。
 白髭さんは、どちらかといえば寡黙である。所用があって、一度南宮崎駅から延岡に行くとき、電車の中で一緒になった。私は、白髭さんにアメリカでの話を尋ねたが、自分のことはほとんど話さなかった。私は、前の社長の言葉を思い出したのだ。
 「白髭君は勉強家でね。こんどは一年ほど、アメリカで勉強してきたんだよ。」
 白髭さんとは、それほど深い付き合いはなかったが、私の方は当社に恩を受けている。50年余り前、私は延岡で薄っぺらnな詩の同人雑誌を出していた。印刷は、ずっと当社にお願いしていた。まだ、安井印刷と名乗っていた頃である。詩人はみんな貧乏である。30年余り、印刷代は据え置きのままだった。当時の担当者のこんな善意が、地方文化を支えているのだ。
 社長になった後、白髭さんに昔のお礼をいうと、かえって恐縮して顔をあからめた。いま、私の手許に残っている名刺は古い。白髭さんは、常務取締役(印刷部門担当)とある。

初めて柴田さんに会ったのは、ある社長さんの紹介だった。ちょうど私が最初の手術を受けた直後だった。柴田さんの方では、米国のベンチャー企業からの新しい技術導入の話があり、顧問として一緒に仕事をさせてもらった。まだ術後の腹帯を巻きつけたまま、家人の心配を押し切ってシアトルまで行った。シアトルのダウンタウンは、クリスマスの前夜で電飾の街路樹が綺麗だった。
 相手のベンチャー企業は、シアトルからさらに内陸へ小型機で1時間ほど飛んだリッチランドの小さな町パスコにあった。パイロットプラントは、砂漠の中だった。半年後の夏、もう一度訪米して契約をしたが、力及ばず事業化できなかったのは、よい企画であっただけに残念だった。
 柴田さんには、この仕事で結果的に多大な経済的負担をかけてしまった。その頃、たまたま宮崎県から県産業支援財団に創設されたコーディネータの委嘱の話があり、顧問を辞じた。
 わずか半年だったが、柴田さんは別府の出身であり、同郷のよしみもあって、気持ちよく仕事をさせてもらった。シアトルでは、日本でも人気のでたスターバックス発祥元の小さなコーヒーショップを訪ねたりもした。今は楽しい思い出だが、何の恩返しもできないまま疎遠になり、私にとっては、心苦しさが未返済の債務のように胸底に残っった。

小林さんは、もとはといえばデザイナー、社長というよりは芸術家である。長身痩躯、都農町に牧場を持ち、颯爽と馬を駆っていた。
 もう10年余り前のソ連からロシアへの転換期、小林さんはロシアの先端技術を日本に導入する仕事をしていた。あるとき、ウオータージェットによる鋼板の切断技術を南宮崎駅裏の工業試験場(旧)に持ち込んだ。試験場の対応がいまいちであったので、私は「面白い技術ですよ」と後で電話した。
 それが縁で、イエバエによる生ゴミ処理技術の特許調査をさせてもらった。イエバエの蛹からは蛋白質、糞は土壌改良剤になった。この技術は、よほど気に入ったのか自社で実施、土壌改良剤で育った甘いトマトを頂いたことがある。一頃、鹿児島大学の先生と、シベリアの凍土に埋没しているマンモスの卵から、本物のマンモスを復活する会を作ったりしていた。
 最近は、東京にいて会う機会もなかったが、新聞で同社倒産の報に接した。新生ロシア誕生のような動乱期には、個性的な先駆者に活躍の場もあるが、世の中が落ち着くと大手商社の資金力に牛耳られる。残念だが、敗戦直後の日本でも同じようなことが起こった。
 今でも、私は渋谷あたりでばったり小林さんに出会うような気がする。いや、六本木辺りのおしゃれな街角が似合うロマンあふれる男である。

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窪田さんに乞われて、サニーシーリングの志比田工場を訪れたのは、10年余り前のことである。窪田さんの盲人ガイド発明が特許庁の拒絶理由を受けての相談だった。弁理士の了解を得て、3日ほど工場に通い対策を講じた。
 昼食の馳走を受けながら雑談していたときのことである。窪田さんが突然おっしゃった。
 「私は三重野さんの特許セミナーの第1回性ですよ。覚えていないでしょう。」と、笑った。
 私は、宮崎県の旧技術情報センターで、「特許セミナー」を7〜8年やっていたことがある。もう20年余り前の話である。その後も、宮崎県の旧工業倶楽部の会や、私がひところ県産業支援財団のコーディネータをしていたこともあって、何度か会社を訪ねた。
 サニーシーリングは、特殊なシール印刷を基幹技術とした会社である。窪田さんは、松下電器を止めて、文字通りベンチャー企業から無借金の優良企業にしあげた。会うたびに新規な事業計画をうかがった。ISOを導入すると、そのノウハウで今度はそのコンサルタント事業まで手がけたが、無意味と分かるとすぐに撤退した。その独特の企業哲学、なかでも「人材略奪論」は魅力的だった。
 会社の事業だけではない。宮崎県工業会、都城の霧島工業クラブなど、地域活動も熱心だった。
 会うと私の体調を気遣ってくれていたので、訃報に接したときには文字通り絶句した。「好事魔多し」とはこのことである。宮崎の経済界を支えるこれからの人だった。

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菊池さんとは、どこでどんな具合にお会いしたか、さだかではない。
一度、菊池さんが会長だった倫理研究会で、30分余り特許の話をさせてもらったことがある。その後の食事のときだった。菊池さんは、ポケットから小紙片をとりだし、声をひそめて、「これは効くよ」と、にやっと笑った。病気がちな私を元気づける気配りではあるが、下ネタをさりげなく開陳するところが、いかにも洒脱な菊池さんらしい。
菊池さんは、ビジネス以外でも多様な面をもっている。そのひとつが国際ロータリー活動である。第2730地区(宮崎・鹿児島)ガバナーでもあった。他にも、多数の公職をかねているが、それもボランティアであろう。一度、多量の受注キャンセルなど、多額の借金を負い、地獄を見たと述懐している。あの温顔の影に幾多の労苦が潜んでいるのだ。
先だっては、事務所の壁の塗装していて、階段から転落、足踵を骨折したらしい。「年寄りの冷や水ですね」というと、車椅子と夫人の介護を受けながら、それでも東京、鹿児島でのロータリーの会に出席したと、いくぶんむきに答えた。感謝をこめて、「生まれ変わったら、また一緒になろう」と夫人に言葉をかけると、「今度はお金持ちがいいので、探しに来ないでね」と言われたらしい。
良寛のことば「一生成香」は、菊池さんの座右の銘である。「一生、香りを成す」、よい言葉である。遅すぎるが、私もかくありたい。

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川越さんは、アイディアマンである。本業の紙の卸業や文具店の周辺技術には違いないが、もともと「ものつくり」を業としていないので少し遠い。最初、一緒に検討させてもらったのはテープカッターであった。かなり本格的なものであった。それだけに、機械化コストがかかり、結局はその距離が事業化のネックになった。
例えば、私が最初にあった頃、川越さんは、折り紙のようにして、箱の作れる包装紙や、辞書の形をした文具回収箱を考案していた。エコ商品である。悲観的な私などには、到底事業化できる代物ではないと見えたが、エコブームの先駆的企業としてのイメージ作戦で、それ自体の商品化とは別に、企業イメージとして本業に貢献していると聞いた。
いつだったかお会いしたら、足にギブスを巻いている。
「どうしました?」
「サッカーで骨をくじきました。」
サッカーは、川越さんから想像できないスポーツである。後に同好会で、川越さんと一緒にサッカーをしている知人に様子を聞くと、川越さんは、ゴール前で独楽鼠のように俊敏に動き、相手があっけにとられているうちにシュートを決める名フォワードであるという。
当県のブランドにもなった「マンゴーのお尻の熟成反射紙」を考えたのも川越さんである。銀紙に穴を開けた単純なものである。アイディア倒れになるのをおそれて、県の亜熱帯植物研究所の技術者を紹介した。他県からの引き合いもあるという。楽しみである。