宮崎の社長さん100人
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This is the archive for December 2010

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小幡さんは、CADの専門家である。パソコン教室をいくつかもっていた。ちょうど、光通信による大容量の電送が可能になった頃の話である。
当時、宮崎県の産業支援財団でコーディネータをしていた私のところに、開発した「移動式監視カメラ」を持ち込んできた。構造は比較的簡単であるが、定点観測するにはメンテナンスフリーがひとつの条件となる。用途がポイントであった。
つい先だって、私は同社を訪ね、久しぶりに小幡さんに再会した。会社は、新別府町の松林の中にある。会議室で合った小幡さんは、どこか素人ぽかった頃に比べると、すっかり経営者の顔に変容していた。その風貌から、アシストユウの進展もうかがえた。
会議室の片隅に、例の監視カメラが立っていた。私が最初に見たときは、文字通り手作りの感があったが、それもまた商品らしくきれいに仕上がっていた。製品化はできるが、商品化がうまくいかないのが宮崎の企業の弱点である。経営者のインダストリアルデザインへの関心が薄いのだ。デザインをいまひとつ工夫して意匠出願をしては、と提案して帰った。
社屋をでると、松林をわたる初秋の浜風が私を通りぬけていった。


岡田さんと最初にあったのは、彼がまだ学生の頃である。私が自社のホームページを立ち上げるのに、木花台郵便局に制作依頼の募集をかけたら、応募者の宮大生に付き添って拙宅にきたのが岡田さんだった。その頃から、ITに関心があったに違いない。
その後、神宮かどこかの書店のネットカフェで、アルバイトをしているという話を聞いていたが、県産業支援財団のIT関連SOHOの集いで講演していたのには驚いた。さわやかな青年実業家である。県内では、学生ベンチャーの数少ない成功事例といってもよいだろう。
岡田さんにまつわる挿話を語るほどの深い付き合いは、わたしにはない。ただ、先年初めて、私はスパークジャパンの本社を訪ね、岡田さんの話を聞いた。まだホームページの制作が中心と見受けたが、システム開発、ネットサーバの構築など、多方面への関心も伺える。とりわけ、東京進出に企業の盛衰をかけている感を受けた。東京進出は、たしかに今後の当社のステップアップを担う試金石となるだろう。
言葉の端々から、岡田さんが宮崎の名士になったり、無駄な会議へ出席したりするのを避けようと、腐心しているのはもっともなことである。独自技術の開発など、夢への投資も先の話である。今は、事業一番、それが若い社長への私の期待でもある。

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佐々木さんは、宮崎大学名誉教授である。もう10数年前、宮崎県技術情報センター(旧)が支援する事業に、「光応用グループ」があった。このグループのリーダーが佐々木さんである。だから、今も社長さんというより先生と呼んだ方が、私にはぴったりくる。
光応用グループには、県内の有力企業が7〜8社は関係しており、佐々木さんのライフワークである「真空紫外光発生装置」の応用研究をしていた。研究成果の特許出願や契約の問題で、私も時々呼ばれた。その後も、佐々木さんは宮崎大学の地域共同開発センター長をされ、私も同じ時期宮崎県産業支援財団のコーディネータをしており、補助金の審査会などでご一緒する機会も少なくなかった。
しかし、何より驚いたのは、この応用グループの主要メンバーであった日之出酸素の旧社長日野佐八郎さんとベンチャー企業「ナノテクフォトン」を立ち上げたことである。宮崎大学発ベンチャー第1号である。NTPは、このナノテクフォトンから分かれた会社である。
ベンチャー企業の例に洩れず、NTPも死の谷(Deth valley)を彷徨していた。その間にみせた佐々木さんの大学人とは思えない粘り腰には、再度びっくりした。問題は銭金だけではない。いつだったか、佐々木さんはぽっつり言った。
「この仕事は、次の世代の誰かが後を継いでくれる尖端技術の礎になればいいんですよ。」
一粒の麦、もし死なずば…である。佐々木さんの志の高さに、損得ばかり考える私は一言もなかった。

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中下さんは含羞のひとである。「私は学生時代、留年して世界中を旅してまわりました。」という。
 私の息子も同じように1年ほどヨーロッパを放浪していたので、この話を聞いた私は、すぐ聖書の「放蕩息子の帰宅」を思い出した。中下さんが放蕩息子というわけではないが、若いときの振幅は、大きければ大きいほど、年を経てその器量も大きくなる。私などとは、比べるべくもない豊かな青春、中下さんと話していて感じる不思議な安堵感は、あるいはそのせいかも知れない。
 中下工業所の先代は澱粉の製造をしていた。今、中下さんは茶業を営んでいる。中下工業所の茶業がどの程度の規模で、どんなお茶を作っているのか私は知らないが、知り合って間のない頃、「水出し茶」を頂いたことがある。製法は丸秘と念をおされた。季節ものだが、スポーツ飲料にも好適である。その売り込みを兼ねて、ハワイや中国のマラソン大会に出場したことがあるとも聞いた。
 中下さんは、「フード宮崎事業協同組合」創立以来の理事長を務めている。組合の主力商品である花かつお風「ふわふわ椎茸」は、実は中下工業所で製造している。また、その開発が中下さんと私の縁でもある。組合は、当初6社でスタートした。利害調整が難しい中小企業の社長さんを束ね、10年余に亘り継続しているのは、中下さんの人柄である。
 現在、中下さんは、新富商工会の会頭でもある。これまた、その人徳のしからしむところという他はない。

  「困りました。」
 会うなりため息をついた。いつも、つかれきった様子だが、本当に疲れているわけではない。結構、こまめにあちこちに顔をだす。緩慢な所作、話し方は生来のものである。
 奥村さんは、長年、延岡でボーロを作っているお菓子屋さんである。研究熱心でもあり、最近は健康ボーロの開発に熱中していた。
 「どうしました。」
 「石油の高騰ですよ。あれで、大打撃ですわ。」
 ボーロは焼き菓子である。燃費があがったに違いないと思いきや、風が吹けば桶屋が儲かる類の話である。
 「いやなに、砂糖の値上がりです。元凶はバイオマスです。石油代替アルコール燃料の原料にと、大手商社がサトウキビの青田刈りに走っているせいです。」
 私は、かつてアルコールとガソリンの混合燃料「ガソホール」の調査をしたことがある。もう30年余りまえ、石油埋蔵量に関するローマ報告書がでた頃の話である。バイオマスは、再生可能な資源として、持続可能な社会のキーテクノロジーであるという、有名大学の先生の講演を聴いたばかりだった。
 まさか、それが砂糖の値を吊り上げ、ひいては奥村さんの小さな町工場の経営を圧迫しているとは、思いもよらなかった。統計を駆使して未来技術を論じる先生の話は正論に違いないが、所詮知識人の一般論である。それにひきかえ奥村さんは、私の愛するルイ・フィリップの「小さな町にて」の住人である。

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河野さんは、まだ若い社長さんである。日向市細嶋の海岸通にある明治28年創業の老舗椎茸卸会社の後継ぎである。
会社を訪れると、決まって、大きな倉庫から庭伝いにある自宅の座敷に案内される。いかにも旧家らしい暗さ、湿っぽさが懐かしい。私が子供時代に育った家も、慶応3年に建った古い屋敷だった。
河野さんと知り合ったのは、それでも十数年前である。異業種交流会の食品部会でのことであった。その頃、私は中小企業事業団(旧)のカタライザーになったばかりで、宮崎県に何とか融合化組合を作りたいと願っていた。たまたま中小企業団体中央会の指導もあって、「フード宮崎事業協同組合」の設立にこぎつけた。河野さんは、創立メンバーの一人だった。
組合のメインテーマが椎茸の加工だったので、原料調達は無論のこと、パソコンと経理に強く、目立たないところでこの事業を今日まで支えてくれている。
河野さんには、中小企業の社長にありがちなあくの強さはない。どちらかといえば寡黙で、何事につけ控えめなところに育ちのよさが窺える。会議の際にも、隅っこでしきりに大学ノートにメモを取っている姿が眼に浮かぶ。当社のHPを見ると、そのメモから、日向に根ざしたいくつかの事業が生まれているのもうれしい。事業シーズがやや小ぶりなのが気になるが、コンピュータ専門の有限会社ヤッシュも立ち上げている。次の時代の宮崎を代表する経営者となってほしい、とこれは私の勝手な願いである。

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岡崎さんは、豪胆かつ繊細な柔道家である。その暖かい思いやりが人をひきつける。
私が中小企業事業団カタライザー(旧)で最初に手がけた融合化組合も、この人なしには設立できなかっただろう。今も、「フード宮崎事業協同組合」を副理事長として支えている。
カタライザーになって、まだ右も左も分からない頃だった。一夜、私ども夫婦をカラオケバーに招待してくれた。岡崎夫人も一緒だった。酒も人付き合いも苦手な私を激励しようとの配慮だったに違いない。一度お会いしただけだったが、あの夜の夫人の笑顔は今も忘れ難い。私が肝臓を患っていると知ると、解体したばかりの豚の新鮮な肝臓をあげようという。家内が毎週受け取りに会社まででかけた。
岡崎さんは、経営者としていつも新しい試みをしていた。特に商売柄、養豚や養鶏の餌には関心が深かった。当社の完熟ポークの旨みは、若布を使用した独特の飼料による。成否は別にして、岡崎さんの新規なものへの即断、即決による取り組みに私は惹かれた。
何かの催しの帰りだった。ホテルのエスカレータにばったり乗りあわせた。今は社長を退かれ、会長として財界活動に専念しているとのことだった。水を得た魚のようである。岡崎さんから支援を受けた人や会は数多い。エスカレータの先を降りる象のように大きな背中を、私は感謝をこめて見送った。

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大山さんは、今もっとも旬の宮崎の若手社長である。私が県産業支援財団でコーディネータをしている頃、焼酎の廃液から酢をつくる技術を開発、特許出願の相談に預かったのが、最初の出会いだった。
ロンドン条約の発効で、焼酎粕の海洋投棄がダメになり、栄養価の高い焼酎粕の利用技術が次々と開発されている。多くは、付加価値の低い肥料や飼料である。うまくいった話は少なく、結局はエネルギー効率の悪い焼却処理となるのが落ちである。
大山さんは、この腐敗しやすい焼酎粕を酢酸発酵する技術を開発して、「アミノ黒酢」として売り出した。アミノ酸の種類と含量が多いところから命名したらしい。その頃は、小さなベンチャー企業の社長をしていた。
大山食品は、1930年に創業した国富町の旧い醸造酢メーカーである。一度、綾町の新工場を訪ねたことがある。すぐ前を綾北川が流れる風光明媚な台地にたくさんの旧い甕が並んでいた。今は本家の大山食品の社長として、新しい試みに余念がない。

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内山さんは一見線が細い。建設会社の社長さんには到底見えない。ところが、実際にはタフネゴシエーターである。新規な事業アイディアを企画倒れに終わらせず、粘り強く事業化まで推し進める。また、勉強家でもある。技術者でもないのに技術士を取得、その進取の精神は産学官で認知され、本来の事業を助けている。試験嫌いの私には信じ難いことである。
内山さんと私の接点は、大手の会社が持つある特許技術の導入をお手伝いしたことから始まる。その技術をめぐっては、既存の全国的な任意団体との複雑な利害関係もあったが、敢然としてそれを絶ったのには驚いた。その後、1年ほどプレ新連携の構築を支援した。
一度、特許技術のライセンシーのひとつである日田の工場を一緒に見学したことがある。九州縦貫道から日田に入り、そのまま大分を経由して、一日のうちに宮崎に帰った。手術後の私には大強行であったが、楽しいドライブだった。道中での雑談で、内山さんの考えも理解できた。そのときも、「日田の会社と提携しては」とのライセンサーの申し出を断った。強い企業家精神には感服した。
内山さんはまだ若い。今では、人脈の多様さも内山さんの財産であるが、相手を利用するだけではなく、相手にも利益をもたらす配慮があれば、これからの宮崎県の建設業を支えるひとりになるにちがいない。

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延岡市が国の特定不況地域に指定されていた頃の話である。(社)発明協会の東京本部役員が延岡市を中心とした特許の活用状況の調査に来たことがある。稲田さんも私も、検討委員だった。結局、最終調査と報告書の作成は、地元の稲田さんと私が担当することになった。その頃私は体調が悪く、調査に回る体力に自信がなくて固辞したが、結果的には稲田さんの熱意に押し切られた。
稲田さんとの出会いは不本意であったが、何が幸いするか分からない。その後勤め先を止めて、小さな会社を作ったことを稲田さんに報告した。
 「名刺を作ったの。」
 「ええ、とりあえず100枚ほど作りました。」
 「100枚、それなら1ヵ月のうちに配ばらんとダメよ。」
いかにも稲田さんらしい直截な忠告である。実際、名刺を渡すにはタイミングが大切で、なれない私には結構難しい。稲田さんの忠告の有難さが分かるには時間がかかった。その後も稲田さんは、何かと仕事を作り、付き合い下手の私を導いてくれた。

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市田さんは、名前のとおり、色白の社長さんだった。いま、シャープの過熱水蒸気を使った調理機「ヘルシオ」がヒット商品になり、大手メーカー各社が類似商品を上市しているが、原理は同じ大型の過熱水蒸気を用いた食材処理機をシャープに先行すること数年前に導入して、さまざまな食材をテストしていた。市田さんは、この技術に心底ほれ込んでいた。旭ミールは、宮崎自動車道高原インターをでたすぐ前のハイウエー工業団地に進出した第1号企業でもあった。
経営は苦しかったらしいが、宮崎県で最初に厚生省の特別用途食品(低カロリー糖尿病食)に挑戦したのも市田さんだった。当時、宮崎県産業支援財団のコーディネータをしていた私は、小さなプロジェクトを作り、1年がかりで取り組んだ。宮崎県食品加工センターも協力してくれた。許可がおりそうだとの電話を受けて、間もなく私は入院した。
私が二度目の肝細胞癌摘出手術を受ける直前、夜中に市田さんから家に電話があったらしい。家人が電話を受けた。旭ミール倒産のニュースを聞いたのは術後だった。早すぎる先駆者に不運はつきものだが、最後に市田さんが私に伝えたかったことは何だったのか。いつまでも、そのことが私の胸底に残って離れない。

伊勢木さんは、精密カラー製版を得意とする印刷会社をやっているが、元はといえば優れたカメラマンである。仕事も、細部まで神経の行き届いた芸術作品である。
清武の社屋を何度か訪ねたことがある。建て増しの温泉旅館のような迷路を案内されて、やっと2階の事務所に着く。奥に、ご自慢の大きな色分解機があった。マッキントッシュのパソコンも並んでいる。一度だけ、私も講演用のスライドを作ってもらったことがある。
何の集まりの後だったか忘れてしまったが、宮崎県工業試験場(旧)の企画科の石油ストーブを囲んで談笑していたときだった。伊勢木さんから「依頼を受けて撮影した写真の著作権は、依頼人にあるのか、撮影者にあるのか」と質問を受けた。著作権や著作人格権は撮影者、版権は依頼を受けたときの契約によるとか何とか答えて、お茶を濁した。
何事につけ、伊勢木さんには芸術家らしいこだわりと、事業家らしいクールな面があった。私は、伊勢木さんのその両面における判断を信頼していた。といっても、伊勢木さんの写真を系統的に見たことはない。ずいぶんネガも溜まっているはずである。一度、「伊勢木俊廣写真展」を見たいものである。

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池田さんは、木の曲げもの専門の家具屋さんである。最近では、木製の螺旋階段まで作ってしまった。和室に似合う木製の車椅子では、もちろん車輪も木である。木製の靴べらは、私の家でも重宝している。最初に知り合ったのは、もう15年以上前、宮崎県の異業種交流プラザであった。便器付きの木製ベッドの開発では、特許調査をさせてもらった。
日南にある会社は森のなかにある。工場にはご自慢の三次元NC工作機が据わっていた。事務所入ると、いつも愛犬のスピッツ「チビ」が、元気にはしりまわっていた。ところが、老齢で後ろ足が動かなくなったらしく、池田さんお手製の車付き補助具をつけていた。池田さんが独特の声色で「チビ、チビ」と呼ぶと、それでも尻尾を千切れるように振る。池田さんの変らぬ愛情を受けながら、先年亡くなった。
いつだったか、池田さんの首が回らなくなった。借金のせいではない。望遠鏡で星を観察するのが趣味と聞いていたので、「ミケランジェロですね」と笑った。ミケランジェロがシスチナ礼拝堂の天井画を描いていて、首が回らなくなった有名な話を思い出しからた。星を見るために、わざわざハワイまで行った話は後で聞いた。
最近は、息子さんも事業家として成長している。これからが楽しみである。