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This is the archive for July 2011

J32・・・神武三十一年の巡幸・・・
時は過ぎ行き、辛卯(かのとう)の年、夏4月1日に、
天皇は、国の巡幸をされました。
腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登られて、
国の形を話されました。
「なんと素晴らしい国を得たことか。
狭いながらも美しい。
蜻蛉(あきづ)が臀呫(となめ)しているように、
トンボが交尾しているように、
山々が連なって見えるなあ。」
これによって、秋津洲(あきづしま)の名がつきました。

解説・・・
辛卯(かのとう)は、紀元前630年です。
腋上(わきがみ)は、南葛城郡掖上村、今の御所市の東北付近。

J33・・・イザナキの言葉・・・
そういえば、神代の昔、イザナキが、言われたそうです。
「浦安(うらやす)の国、即ち、心安らぐ国、
細矛(くわしほこ)の千足(ちだ)る国、即ち、武器の多い国、
磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)の国、即ち、良く整った国」
それから、やはり、神代の昔、オオアナムチが、言われたそうです。
「これは、玉垣の内つ国、即ち、垣根のような山が囲む国」
また、近い昔、ニギハヤヒは、
天磐船(あまのいわふね)で、大空を駆け巡り、
空から眺めて、言われたそうです。
「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国、
即ち、空から見ると美しい日本の国」

J34・・・太子(ひつぎのみこ)の選定・・・
時は過ぎ行き、神武42年、
壬寅(みずのえとら)の年、春正月3日に、
カムヌナカワミミを、皇太子に指名しました。勿論創作です。

解説・・・
壬寅(みずのえとら)は、紀元前619年です。

J35・・・神武天皇崩御・・・
時は過ぎ行き、神武76年春3月11日に、
神武天皇は、崩御されました。
御歳(おんとし)127歳でした。 
翌年の9月12日に、畝傍(うねび)山の東北に葬られました。

解説・・・
神武76年は、紀元前585年です。
畝傍(うねび)山の東北は、橿原市大字洞字ミサンサイです。
本当のところは、よく分りません。
何せ、江戸時代の末ころまで、誰も関心がなかったのですから。
それが、尊王思想の国学者によって、俄に関心が高まったのが、
江戸時代末期のことですから。

以上で終わります。

J29・・・神武天皇即位・・・
翌年、辛酉(かのととり)の春正月の1日に、
神武は、橿原宮(かしはらのみや)で、
初代天皇として、即位されました。
この年が、天皇の元年です。
この天皇を、
始馭天下之(ハツクニシラスノ)天皇(スメラミコト)と称え、
神日本磐余(カムヤマトイワレ)
彦火火出見(ヒコホホデミノ)天皇(スメラミコト)と呼びます。
ヒメタタライスズヒメを皇后とされました。
後の話ですが、子供が二人できました。
神八井耳(カムヤイミミ)命(のみこと)と、
神渟名川耳(カムヌナカワミミ)尊(のみこと)です。 

解説・・・
辛酉(かのととり)は、紀元前660年です。

J30・・・論功行賞・・・
翌年、神武2年の春2月2日に、天皇は、論功行賞を行いました。
ミチノオミには、築坂(つきさか)に宅地も与え寵愛しました。
オオクメには、畝傍(うねび)山の西に住まわせました。
シイネツヒコを、倭(やまと)の国造(くにのみやつこ)としました。
オトウカシを、猛田(たけだ)の県主(あがたぬし)としました。 
オトシキを、磯城(しき)の県主(あがたぬし)としました。 
ヤタガラスも又、賞を賜わりました。


J31・・・天つ神の祀り・・・
神武四年の春2月23日に、
天皇は、天つ神を祀る場を鳥見山に設けました。
そこに、高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)を祀りました。

解説・・・
鳥見山は、桜井市外山の鳥見山です。
神武四年は、紀元前657年です。勿論創作です。

J26・・・最後の総仕上げ・・・
翌年、己未(つちのとひつじ)の年の春2月20日に、
帰順しない豪族たちを、打ち滅ぼしました。
添県(そうのあがた)の新城戸畔(ニイキトベ)、
和珥(わに)の坂下の居勢祝(コセノホオリ)、
長柄(ながら)の丘の猪祝(イノホオリ)、
高尾張(たかおわり)の土蜘蛛(つちぐも)などを、打ち滅ぼしました。

解説・・・
己未(つちのとひつじ)は、紀元前662年です。
この辺りは、日本書紀だけです。
添(そう)は、添上(そえかみ)郡に関連し、大和郡山市付近です。
和珥(わに)は、現天理市和珥です。
長柄(ながら)は、現御所市長柄です。
高尾張(たかおわり)は、現御所市南部付近です。
以上を見ると、奈良盆地全体を制圧したことを示す文章です・

J27・・・神武の勅旨(みことのり)
春3月7日に、神武は、部下を集めて勅(みことのり)されました。
「われが、東征を決意して、ここに六年たった。
天つ神のご加護によって、兇徒(きょうと)は全て平らげた。
ここを都と定め、立派な御殿を作ろう。
国の中心である大和(やまと)にて、都を開き、
八紘(あめのした)を掩(おお)いて、宇(いえ)にせん。
天の下のこの地上を、一つの家にしようではないか。
この畝傍山(うねびやま)の東南の橿原(かしはら)は、
真に大和の中心だ。ここに都をつくりなさい。」

解説・・・
この辺りは、日本書紀だけです。
例の、八紘一宇の基となった言葉が、ここにあります。
ここの話は、もっと長いのを、うんと省略してあります。

J28・・・大和での結婚・・・
翌年、庚申(かのえさる)の秋8月16日に、
神武は、大和で、后を迎えようとされました。
ある人の奨めにより、
媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)にされました。
この娘のお父さんは、事代主神(コトシロヌシノカミ)です。
お母さんは、玉櫛媛(タマクシヒメ)です。
三嶋(みしま)の溝橛耳(ミゾクイミミ)の娘です。
それで、9月24日に、正式に后とされました。

解説・・・
庚申(かのえさる)は、紀元前661年です。
この部分、古事記にもありますが、名前が違います。
ヒメの名前は、ヒメタタライスケヨリ姫です。
ホトタタライススキヒメとも言います。
お父さんは、三輪山の大物主神(オオモノヌシノカミ)です。
お母さんは、セヤダタラ姫です。三島ミゾクイの娘です。
この二つの話から推測しますと、
お母さんが、有力豪族である三島ミゾクイの娘であり、
即ち、政略結婚であります。
お父さんは、妻問い結婚のためか、誰の子か分らず、こう言う時、
娘を売り込む時、神の子、龍の子と言ったのではないでしょうか。
娘に通ってきた男は、渡来人の可能性は充分あります。

J23・・・ナガスネヒコとの決戦・・・
冬12月4日になりました。
皇軍は、遂に、長髄彦(ナガスネヒコ)と、再戦することになりました。
しかし、双方決め手なく、一進一退を繰り返しました。
その時、急に空が暗くなり、雹(ひょう)が降って来ました。
そこへ、金色の鵄(とび)が舞い降りてきて、
神武の弓の先に、止まりました。
その金色の鵄(とび)は、光り輝き、まるで雷光のようで、
ナガスネヒコの軍勢は、眩しい光に遮られ、
勢いが、どんどん衰えました。

J24・・・ナガスネヒコの使者・・・
ナガスネヒコは、戦況が不利になったと、感じ取り、
神武に使者を送ってきました。
「以前、天つ神の御子という人が、
天磐船(あまのいわふね)に乗って、天から降って来られました。
名前は櫛玉(クシタマ)饒速日(ニギハヤヒ)と申される人です。
それで、私の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を嫁にやり、
可美真手(ウマシマデ)と言う子供もできました。
そんな訳で、私は、現在、ニギハヤヒに、お仕えしています。
一体、天つ神の子が、二人も、おられるのですか。
あなたは偽者でしょう。」
それを聞いて、神武が答えられました。
「天つ神の子は、何人もいる。
お前の主人が、天つ神なら、何か徴(しるし)があるだろう。
それを示してご覧。」
使者は、天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)とを持ち帰り、
神武に見せました。
神武は「間違いない」と言い、自分も同じものを見せました。

J25・・・ニギハヤヒの帰順・・・
ナガスネヒコは、それで、神武も天つ神であると、分りましたが、
いまさら、戦う心を改めることが、できませんでした。
この時、ニギハヤヒは、ナガスネヒコに、教え諭しましたが、無駄と知り、
それで、ナガスネヒコを殺害し、部下を連れて帰順しました。
神武は、これを良しとして、ニギハヤヒを可愛がりました。
ニギハヤヒは、物部氏の先祖です。

解説・・・
古事記は、この辺り、話が断片的で、どうも、良く分りません。
トミビコを攻撃した後に、エシキを攻撃しており、順序がおかしいです。
しかも、殺したとは、書いてありません。
その後に、ニギハヤヒが帰順します。
そして、ニギハヤヒが、ナガスネヒコを殺したとも書いてありません。
何だか、よくわからない話が続きます。
それに比べ、日本書紀は、よく分ります。

J21・・・兄磯城(エシキ)の反抗・・・
冬11月7日になりました。
神武は、磯城彦(シキヒコ)兄弟を攻めることにしました。
まず、使者を送りましたが、兄弟のうち、兄磯城(エシキ)は
返事をしてきませんでした。
次に、ヤタガラスを派遣すると、弓を取って、射掛けてきました。
それで、ヤタガラスは、弟磯城(オトシキ)の家に行くと、
オトシキの方は、ヤタガラスを、もてなしました。
そして、オトシキは、神武に帰順しました。

解説・・・
磯城(シキ)は、奈良県磯城(シキ)郡一帯

J22・・・シイネツヒコの作戦・・・
シイネツヒコが作戦をたてて、言いました。
「まず、忍坂(おさか)の道へ、
先に帰順した、女軍(めいくさ)を繰り出しましょう。
敵は、本隊が来たと思い、精兵を出してくるでしょう。
こちらは、本隊の強兵を、墨坂の方へ、走らせましょう。
そこで川の水を炭火に注ぎ、道を開いた後に、
挟み撃ちにすれば、必ず勝つでしょう。」
作戦通り、戦いは進められ、遂に、兄磯城(エシキ)を切り殺しました。

J17・・・夢のお告げ・・・
その夜、神武は、神に祈って眠りにつきました。
すると、夢に、天つ神が現われ、神武に教えました。
「天の香具山の土を取ってきて、瓦や瓶を作り、
天神地祇(てんしんちぎ)を祀りなさい。」
翌朝、神武が何も言わないのに、オトウカシが、
夢と同じことを申し出ました。
それを聞いた神武は、喜んで、
シイネツヒコに、貧しい老人の姿をさせ、
オトウカシに、貧しい老婆の姿をさせ、
香具山の土を取ってくるよう、命じました。

J18・・・天香山への潜入行・・・
二人が出かけると、早速、道に敵兵が満ち溢れていましたが、
「なんと、汚い老夫婦だ」と笑って通してくれました。
二人は無事に土を取ってきました。

J19・・・天神地祇への祀り
神武は、大変喜んで、早速、瓦や瓶を作り、
丹生(にう)の川上で、天神地祇(てんしんちぎ)を祀りました。
また、宇陀川の朝原で、占いをし、成功させました。

解説・・・
この辺りは、日本書紀だけです。相当、長々と書いています。
丹生(にう)の川上は、
奈良県吉野郡小川の丹生川上神社中社の付近です。
宇陀川の朝原は、
宇陀郡榛原(はいばら)町大字雨師字朝原の丹生神社の付近です。

J20・・・八十梟帥(ヤソタケル)との戦い
冬10月1日になりました。
いよいよ、神武は出陣しました。
まず、国見丘で、八十梟帥(ヤソタケル)を、切り殺しました。
しかし、残党が多くいたので、
忍坂(おさか)邑(むら)に、大室を作り、そこで敵を誘って、
大酒宴を開き、酔ったところで、皆殺しにしました。

解説・・・
忍坂(おさか)は、桜井市忍坂(おさか)です。
この辺りは、日本書紀も、古事記と、
大局的には、同じですが、ストーリー展開が、やや違います。

J14・・・エウカシ の策略・・・
秋8月2日になりました。
宇陀には、二人の豪族がいました。
兄猾(エウカシ)及び、弟猾(オトウカシ)の兄弟です。
神武は、話し合いをしようと、二人を招集しました。
しかし、エウカシは、やって来ず、オトウカシだけが参上しました。
オトウカシが、兄の策略を暴露しました。
「兄は、だまし討ちしようと、新しい宮を作り、
その中に仕掛けを作り、御もてなしと、見せかけて、
落とし穴に、落とそうとしています。」
神武は、早速、ミチノオミに確認させました。
ミチノオミは、仔細に調べた後、エウカシに、
「お前が部屋に先に入れ」と、剣と弓で追い詰めたので、
エウカシは、自分の仕掛けに落ちて死にました。
弟のオトウカシは、帰順し、酒宴で、神武らを、おもてなししました。

解説・・・
この辺りは、日本書紀も、古事記と、ほぼ同じストーリーです。

J15・・・吉野の視察・・・
この後 神武は、吉野の地を、視察されました。
最初に、井戸の中から、尾が光る人が出てきて、
井光(イヒカ)と名乗りました。吉野の首(おびと)の先祖です。
次に、磐(いわ)を押し分け、尾のある人が出てきて、
磐排別(イワオシワク)と名乗りました。吉野の国栖(くず)の先祖です。
そして、梁(やな)で魚を採る人が出てきて、
苞苴担(ニエモツ)と名乗りました。
阿太(あだ)の養鵜(うかい)の先祖です。

解説・・・
この辺りは、日本書紀も、古事記と、ほぼ同じストーリーです。
ただし、古事記では、熊野から、まず吉野に到達しています。

J16・・・敵情視察・・・
秋9月5日になりました。
神武は、宇陀の高倉山に登って、周りの情勢を、眺めました。
あちこちに、敵軍が見えました。
すると、西の方の国見丘に、八十梟帥(ヤソタケル)の軍がいました。
また、女坂(めさか)には女軍(めのいくさ)、
男坂(おさか)には、男軍(おのいくさ)、
墨坂(すみさか)には、炭軍(すみのいくさ)が陣取っていました。
又、遠く、磐余邑(いわれのむら)には、
兄磯城(エシキ)の軍が溢れていました。
いずれも要害の地であり、道と言う道は、全て塞がっていました。
神武も「これでは、大和(やまと)入りは、適わぬなあ」と当惑しました。

解説・・・
高倉山は、大宇陀町守道にある山です。
この辺りは、日本書紀だけです。
磐余邑(いわれのむら)は、奈良県磯城郡桜井町、
現在の桜井市付近の地名です。
神武の名前の、神日本(カムヤマト)磐余彦(イワレヒコノ)
天皇(スメラミコト)の磐余(イワレ)は、ここからきています。
磯城(シキ)は、奈良県磯城郡一帯の地名です。
磯城(シキ)の方が、磐余(イワレ)を含む広い地域です。

J12・・・ヤタガラスの助け・・・
神武らは、ようやくに、内陸部に向け出発しました。
しかし山道が険(けわ)しくて、道を探せど見つかりません。
困っていた時、神武の夢に、アマテラスが現われました。
「今、頭八咫烏(ヤタガラス)を遣(つか)わすから、
これを先導に、山を越えなさい」
すると、ヤタガラスが舞い降りてきました。
神武は、喜び申されました。
 「烏(からす)が来たのは、夢のお告げの通りだ。 ああ偉大なり」

解説・・・
古事記では、アマテラスでなく、高木神が言ったことになっています。

J13・・・日臣(ヒノオミ) の活躍・・・
こうして山を越える時、大伴(おおとも)の先祖の日臣(ヒノオミ)が、
大来目(おおくめ)を率い、大軍の大将の役目を任されました。 
それでヒノオミは、山を踏み、道を掻き分け、カラスを仰ぎ追いながら、 
遂に大和の近く、即ち、宇陀(うだ)の下県(しもつこおり)、
穿(うかちの)邑(むら)に到着しました。
神武は、日臣(ヒノオミ)の活躍ぶりを、褒め称え、
「山越えの功、見事なり。本日よりは、道臣(ミチノオミ)と名を名乗れ」 

解説・・・
この辺りは、日本書紀も、古事記と、ほぼ同じストーリーです。
ただし、古事記では、まず吉野川の河尻に到達し、その後、
宇陀(うだ)に到達しています。私は、古事記のルートの方が好きです。
穿(うかち)は、宇陀郡宇賀志村のことです。

J11・・・タカクラジの助け・・・
こうして神武は、兄弟を全て失い、悲嘆の中、
残った息子タギシミミを、引き連れ、軍を進めました。
そして熊野の、荒坂津(あらさかのつ)に到着しました。
そこに、丹敷戸畔(ニシキトベ)なる賊(ぞく)がいて、
抵抗したので、殲滅しました。 
その時、神が毒気(どくけ)を吐き、たちまち全員、倒れこみました。
そこへ、熊野の高倉下(タカクラジ)と言うものが、
神武に「ふつのみたま」と言う名の剣を献上しました。
タカクラジは、昨日の夢の話をしました。
「アマテラス様が、夢に出て、タケミカヅチに命令しました。
『地上は乱れ、騒がしい。もう一度降りて、退治しなさい』
タケミカヅチが答えました。
『その必要は、ありません。私が平らげた時に使った、この剣を、
下に降ろせば、大丈夫です』
朝、眼が覚めて、倉の中を見ると、この剣がありましたので、
早速、参上いたしました。」
神武は、お礼を言い「ずいぶん長い間、眠ったようだ」と言われました。
その後、兵らも目覚めました。

解説・・・
荒坂津(あらさかのつ)は、三重県南牟婁郡荒阪村二木島、
現在、熊野市二木島(にきしま)町
丹敷(にしき)は、この二木島(にきしま)の豪族と思われます。
丹(に)は水銀のことなので、神武の軍は、
水銀中毒にかかったのでは、と言う話もあります。
タカクラジの話は、日本書紀も、古事記も、ほぼ同じです。

J10・・・稲飯と三毛入野の死・・・
6月23日に、名草戸畔(ナクサトベ)が抵抗したので、殲滅しました。 
その後、佐野を越えて、神邑(みわのむら)に至り、
天磐盾(あまのいわたて)に登りました。
更に軍勢は進み、
海を渡る時、にわかに嵐に遭遇し、舟は激しく揺れました。
稲飯(イナヒ)が、嘆き申しました。
「ああ、父上は天つ神で、母は海の神、それなのに、
どうして陸に悩まされ、海で苦しめられるのか」
そして剣を抜いて、海に沈み、鋤持神(サヒモチノカミ)と、なられました。
更に、三毛入野(ミケイリノ)も、暴風を恨んで申しました。
「我らの母も、叔母さえも、海神(わたつみ)の娘、それなのに、
どうして我を溺れさすのだ」
そして波の穂を踏み抜いて、常世国(とこよのくに)に、去られました。

解説・・・
この辺りは、日本書紀だけです。
名草は、和歌山市西南に、名草山があります。
佐野は、和歌山県新宮市内です。
神邑(みわのむら)は、新宮市の熊野速玉神社の地、
天磐盾(あまのいわたて)は、新宮市の神倉山です。
しかし、話の順序が、どうも、おかしいです。。
和歌山から熊野までを、海を行くなら、分りますが、
新宮で一旦、上陸してから、
また熊野まで、海を行くなんて、おかしいです。
私は、海を渡るのは、名草と佐野との間だと思います。
鋤持神(サヒモチノカミ)は、古事記では、山幸帰還の時に、
一尋ワニに与えた名前となっています。
古事記では、次男のイナヒ、及び三男のミケヌは、
ウガヤの子供の説明の時に、死んだことが書いてあります。
表現は日本書紀と同じ死に方です。
日本書紀の、この場所の方が、説明として適切な感じがします。

J7・・・一路難波へ・・・
戊午(つちのえうま)の春2月11日に、
神武らは、いよいよ東へ進軍しました。
難波(なにわ)の岬を通る時、潮の流れが速くなったので、
浪速国(なみはやのくに)と名付けました。
3月10日、河内国(かわちのくに)の草香邑(くさかのむら)の
青雲(あおくも)の白肩津(しらかたのつ)に到着しました。
夏の4月9日に、徒歩で竜田(たつた)に進みましたが、
道が険(けわ)しく、引き返しました。

解説・・・
戊午(つちのえうま)は、紀元前663年です。

J8・・・長髄彦(ナガスネヒコ)との戦い・・・
今度は東の生駒山(いこまやま)を越え
大和(やまと)を目指しましたが、
その時、敵の長髄彦(ナガスネヒコ)が待ち受けていて、 
孔舎衛(くさえ)の坂にて、戦いとなりました。
この時、敵の流れ矢が、五瀬(イツセ) の肘(ひじ)に
突き刺さってしまいました。
このため、神武は兵に告げました。
「日の神の子の、わが軍が日に向っての戦いは、
これ天の道に背くもの、ここは一旦、退(しりぞ)こう」

解説・・・
この台詞(せりふ)、古事記では、イツセが言います。

J9・・・五瀬(イツセ)の死・・・
5月8日に、軍勢は、茅渟(ちぬ)の山城(やまき)の
水門(みなと)に到着しました。
この時、イツセは、痛みが一層ひどくなり、
「くやしい」と雄叫び上げて嘆きました。
それで、ここを雄水門(おのみなと)と呼ぶようになりました。
そして紀国(きのくに)竃山(かまやま)に着いたところで息絶えました。
神武は、兄を、ここ竃山に葬(ほうむ)りました。

解説・・・
茅渟(ちぬ)は、大阪府和泉市付近です。
竃山は、和歌山市和田(旧名草郡)で、竃山神社があります。

J5・・・東征出発・・・
その年の冬、10月5日に、東征の旅に出発しました。
速吸之門(はやすいのと)に来た時に、
一人の海人(あま)の舟に会いました。
珍彦(ウヅヒコ)と名乗りました。
神武は、海の道案内として、家来にしました。
椎根津彦(シイネツヒコ)と名を与えました。
倭直(やまとのあたい)の始祖です。 

解説・・・
速吸之門(はやすいのと)は、今の豊予海峡です。
古事記は、もっと後の吉備の次に、この話があります。
日本書紀の方が、良いとされています。

J6・・・宇佐など滞在・・・
宇佐にお着きになり、足一柱騰(あしひとつあがりの)宮にて、
宇佐津彦(ウサツヒコ)と宇佐津姫(ウサツヒメ)の歓待を受けました。
この時、神武は、ウサツ姫と天種子(アマノタネノコ)を夫婦にしました。
アマノタネノコは中臣氏(なかとみのうじ)の祖先です。
11月9日に、筑紫国(つくしのくに)の
岡水門(おかのみなと)に到着しました。
12月27日に、安芸国(あきのくに)の
埃宮(えのみや)に到着しました。
翌年、乙卯(きのとう)の年、春三月、吉備国(きびのくに)に入りました。
神武は、ここで高嶋宮(たかしまのみや)を造り、 
じっくり三年かけ、舟や食糧の準備をしました。

解説・・・
基本的には、日本書紀も、古事記と、ほぼ同じストーリーです。
天種子の話は、日本書紀だけです。
滞在時間が、書紀と古事記とでは、かなり違います。
古事記は、岡田宮に一年、多ケ理宮に七年、高島宮に八年と随分長く、
書紀は上記の通り、3年4ヶ月くらいで、短いです。
日本書紀の埃宮(えのみや)も、古事記の多ケ理宮も、
どちらも「優れた」と言う意味で、古書に「優宮」とでもあったのを、
読み方が分らず、それぞれの当て字を使ったものと思われます。
乙卯(きのとう)の年とは、紀元前666年のことです。

J3・・・昔の懐古・・・
神武は、四十五の時、兄弟や子供を集め、話しました。
「昔、我らの天つ神(あまつかみ)タカミムスヒとオオヒルメ(天照大神)が
豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国を、
オオクニヌシから譲り受け、私の曽祖父ニニギに、授けられた。
当時はまだ、世は暗かったが、先祖らは、正しい道を開かれ、
この西の辺(ほとり)にて、善政により治められた。
そして、天孫が地に降ってより、長い年月が過ぎ、
179万2470余年がたった。

解説・・・
今まで読み進めてきたように、日本書紀は、
中国人に読ませることを意識しているかのように、
文体も、完全な漢文で、内容も極力、不思議な面は抑えて、
超真面目に書いているのに、
突如、1792470という、信じられない年数がここに書かれています。
古来、これは暗号ではないか、という説があります。
比較的、真面目な説を、二つだけ紹介します。
まず、一つは、
数字を単純に足し算すると、30になります。
これに0をつけて、300年のことだとする説です。
しかも古代は、春夏を一年、秋冬を一年としていたようなので、
つまり、現代的には、2倍暦なので、150年のことだとする説です。
二つ目は、
日本書紀ができた西暦720年頃には、
日本の学者は、中国の暦法を熟知していました。
この暦法を知っている人にとっては、当たり前の数値である、という説。
即ち、当時、旧暦(元嘉暦)から新暦(儀鳳暦)に切り替える時でした。
この二つの暦法の違いを説明するのに、
1792470年の長期計算が必要だと言うことを、
暦法学者なら、誰でも知っていました。
年号がはっきりしない、天孫降臨の頃から、
我々日本人は、暦のことを、きちんと知った上で、
この歴史書を記述しているのですよ、
と言う事を中国に示したいために、という説です。

J4・・・東征の計画・・・
しかし、今も、遠い国では、王の恵みが及んでいないようだ。
塩土老翁(シオツチノオジ)の話によると、
東に良い国があり、青山が四方を取り囲む美しい国があるそうだ。
その土地に磐舟(いわふね)で、天下った者がいるそうな。
その者は、きっと饒速日(ニギハヤヒ)に違いない。
その土地は、政(まつりごと)するに相応(ふさわ)しいようだ。
多分そこが、中心だ。我らも、そこへ移り住み、都を作ろうではないか。」
神武は、このように話され、東征を決意されました。
その歳は、太歳(たいさい)つまり干支(えと)で、
甲寅(きのえとら)でした。

解説・・・
ここから、日本書紀は、「何年何月に、何があった」という、
書き方になります。勿論、日付は、全て創作です。
太歳(たいさい)つまり干支(えと)は、60年で一周します。
悪く言えば、60年の倍数で、いくらでも、ごまかせる訳です。
事実、日本書紀は、中国に対して、わが国も、古いぞとするために、
神武即位を、紀元前660年にまで、
約千年くらい古くして、ごまかしています。
甲寅(きのえとら)は、紀元前667年にあたります。
神武東征は、東遷とも言います。
私は、個人的には、東遷の方が好きですが、
内容的には、戦いの話ばかりなので、今回は、東征を使います。