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がんばれ宮崎

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2年前に下記を書いたが中断していた。改めて書きためようと思う。
祖父が亡くなってずいぶんと時間が経った。祖父を知っている人も年々亡くなっている。
まずは自分の記憶を書き留めそれを祖父を知る人たちに確認しながらまとめてみたいと考えている。

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私の家は明治の初めに徳島県より移住している。
曾祖父曾祖母は子供がいなくて、祖父と祖母は養子養女である。
したがって、血のつながりは絶えていると思う。

祖父は高岡出身の奥野家より養子できているが、正確な年齢がわからないとよく言われていた。昔の戸籍はそういうものだったらしい。
先祖は鶴之島というところで人夫をしていたらしい。後、江平に住んだとのこと。
当時山之口といわれていた、神宮西(現在の実家のあるところ)にその後、越してきた。
小作人をやっていて、祖父の亡くなる頃の日記に、小作人のつらさやるせなさをしるしたものがあったが、苦労をしていたようだ。
曾祖父曾祖母とも介護が必要な状態になり、苦労はさらに重いものになった。
祖母も曾祖父母の面倒を見ながら農作業を手伝うという日々だったらしい。
そのせいか長女である母親の兄が2名ほどいたようだが、生きては生まれなかったようだ。
母の下に千恵子という妹がいたが、終戦間際に肺炎となり、薬がないために死んでしまったという。
祖父は徴兵され、中国大陸に出征。遠くは重慶まで行ったようだ。戦後も2年程度抑留され、戻ってきたのは昭和23年頃だったらしい。ようやくたどりついた我が家に戻ると、次女はすでに死んでいた。祖父は次女のためにどこで入手したのか人形をぶらさげていたという。祖母は土下座して謝った。祖父は涙を見せながらも、祖母を気遣った。
祖父はとにかく働いた。空いた時間を見つけて自転車で野菜を売りに行った。農閑期には馬車で木材を運んだ。

農地改革(農地解放)により祖父は小作人から自作農となった。
祖父は江平の空き家を買い求め、移設をしていた。その家の居間には畳半分くらいの囲炉裏があり、そこで祖父母は食事をしていた。
農地改革のために市役所の人間が測量などをやっていたときく。その頃の事情だろうが、祖父の家に泊って周囲を測量していたようだ。毎日の作業にはそれが効率的でよかったのかもしれない。
夜はこの囲炉裏で焼酎などを酌み交わしていたようだ。そこで、「水居さん、ここは角地になるからいいわ、買うた方がよい」と言われたそうだ。インサイダー的な話かもしれないが、そこで祖父は「無尽」、今の宮崎太陽銀行から金を借り購入した。

また、現金収入のために下宿をしていて、近くにある宮崎大学の学生が数名住んでいた。風呂は供用させていて、風呂上がりの学生が祖父と囲炉裏で焼酎を酌み交わすことも多かったらしい。そこで、花の話が出る。農学部の学生が花の先生を紹介し、先生も焼酎片手に囲炉裏に来たらしい。官舎もすぐそばにあったせいもある。
生花のビジネスについて聞いたようだ。種をもらったり、指導をしてもらったりで花の生産がはじまる。最初のうまくいった花はフリージアだと聞く。
いろいろとトライし、出荷できるようになった。北九州に貨車に載せて出荷するのだが、残念ながら熱とかエチレン(塗料から出る)により半分以上腐っていたらしい。

祖父は宮崎に花市場の必要性を感じていた。生産者、小売店ともに同様だったようで、都城で花市場をしていた小倉道男さんにお願いをして共同で設立した。小倉花市場のちの宮崎中央花きである。小さい時によく祖父に連れられて行った。祖父は晩年市場に出かけていた。黄門さんと呼ばれ若い人たちにも可愛がってもらっていたようだ。

祖父は野菜、米、花と作っていた。祖母と二人で黙々と働いていたという印象がある。母は妹が亡くなったため、一人娘であった。祖父は母を宮崎大学付属小学校に入学させた。今でも選抜のある付属小学校は一種ステータスがあるが、当時町家の子弟ばかりの付属小に農家の子が入るのは珍しかったらしい。祖父にどこか一種コンプレックスがあったのかもしれない。母は付属中学校、宮崎大宮高校と進む。高校は商業科(後の宮崎商業高校)だったようだ。高校では体操部に属し、その写真が残っている。卒業後は農協や山形屋で働いていたようだ。

父は都城市の隣の三股町の出身。2人の姉、1人の兄、2人の妹、1人の弟がいた。さらに一番上に異母姉がいる。農家であったが、没落していて苦しい家計だったと聞く。
宮崎県立都城都島高等学校(後の都城農業高校)卒業後、久留米の農業試験場を経て宮崎に戻る。農協を中心に就職活動をしていたがままならず、その時期に知人を通じて母と見合いすることになる。見合い後、毎朝父は水居の家に来て便所の糞尿を汲み取り、畑にまくなどをしていたらしい。祖父はそこを気にいって結婚ということになったようだ。祖父は父をまず養子とした。相続対策だったのかもしれない。そのうえで母と結婚させた。
当時の父の日記にそのあたりの苦悩の記述があった。萩原(旧姓)家の再興を果たさないといけないから自分はあえて萩原の名前を捨てる、とあった。

父は、なんとか延岡市の東延岡農協に就職が決まり、延岡市出北(いできた)町に引っ越す。新婚の新居は東延岡農協の官舎であった。2Kだったの平屋だったと記憶している。トイレが入口の土間から奥に入ったところにあり、小用が4つくらい、個室が2つくらいあった。ここは農協の事務所のトイレでもあった。母には見知らぬ男性がどかどかと入ってくるのは耐えられなかったらしい。いつも土間の障子がぴっちりとしまっていたのが記憶にある。
下に弟が二人生まれ、私は宮崎の祖父母に預けられた。実家から遠く離れて、0歳、2歳、4歳の男の子3人は経済的にも物理的にも母の手に負えなかったのだろう。
そのおかげで私は祖父に大きな影響をうけることとなる。